京黒染の歴史を見ると、茶染屋が中心となって黒色を染めていたが江戸期には既に藍
の下染が行なわれており、藍染、紺染業とは連帯の間柄である上、大正から昭和の初期
にかけ直接染料による浸染黒へ業界が転換していった際、藍染、紺染業が黒浸染に業種
転換を行ない、黒染業者となった経過から京黒染の歴史を共に作って来たと認識したい。
藍染業と紺染業の二つの業種は同じ藍を用いて染色する業種であるが、明治時代では
この二業種について古老の証言や、京都府著名物産調によると次のように区分されている。
また江戸時代も同じような事業区分があり、後述のように紺染業は広い範囲にわたっている。
藍染業 藍による青色無地染色
紺染業 各種の型置のり防染したものを藍によって青色地染をする
以上の外に中形紺染業もあり、中形の型置と地染を行なっていた。
したがって後年、友禅業として盛業した工場も紺屋業の中に名前が見られる。
江戸時代以前十三世紀頃から藍染、紺染業の専業化が始まったようで、
十七世紀には日本各地で紺屋が存在していた。
京の紺屋は元禄五年の頃、油小路一条下ル又左衛門、麩屋町四条下ル、東堀川夷川と
三条間と「萬買物調方記」 に記されているが、紺屋系統の黒染工場の中に現在柊屋の家号を継ぐ工場は多い。
柊屋の始祖は江戸初期まで遡及できる。
代々、柊屋佐助(小谷)を名乗り、綾小路西洞院東入ル(万延二年正月)に所在していたが
元治元年(一八六四)に西洞院四条下ルに転居して昭和まで活躍し、多くの別家を輩出している。
言い伝えによれば先祖は織田信長に討たれた江州小谷域主の浅井家であり、江戸時代に入り
紺屋を営み連綿として続いて今日にあると言う。
紺屋の仕事内容を大きく括ると、
1、型付之類地合何二不寄色物之義者紺屋職二テ相染侯義二御座候
とあるように、どのような生地でも型防染したものを色物(紺色)に染めるのは紺屋職で
あると言い切っている。
こうした考え方で後述のょうに紺屋仲間が他の類似業種をも傘下に吸収していったようだ。
紺屋同業者は宝暦六年(一七五六)に京都町奉行に紺屋仲代、
升屋九右衛門外十一名連署で次のような願書を提出している。
年恐奉願ロ上書
そしてその内容に、
私共は当地で紺屋の仕事をしており上は中立売より下は松原の間に住いしている同業者は約八十軒余(八十二軒)あります。
と述べてあり、当時の紺屋の数がわかる。
また願書には次のよう に述べられている。
職人の義故幼少ヨリ召抱候子飼ノ弟子奉公人年季相極召使候処漸細工等モ候者年季ノ内理不
尽ノ暇ヲ乞ヒ同職ノ方へ参り賃銀ヲ取働申候族モ有之且又手間取細工人ノ義モ給銀ニテ相極メ
召抱候慮以前ト違ヒ近年ハ惣体勤方不將二相成賃銀前借仕ナカラ極メノ細工等ニ不参同職ノ方へ
参又々増銀前借仕最初雇申者殊ノ外難義手支二相成申合等モ仕候得共取締モ不仕各勝手尽ノ品モ
有之故自然ト奉公人並二手間取共勝手盛仕候依之右体之不道理不仕候様
当時 の紺屋は従業員対策で悩まされており、現代感覚では受け入れ難い考え方でもあるが、
「年季を定め召使っている弟子、奉公人が仕事を覚えると約束の年季が明けない内
に退職して同業他工場へ働きに行き賃金を取っている外、細工人(職人)も以前と異なって
勤務態度が悪く賃金を前借りしてもよい仕事をせず、その上、同業者へ転職して前借りするなどして、
始めに雇った者が迷惑している等々により年行事(役員)を定め同業者間で取締りたいから許可してほしい。」
以上のような内容で奉行所に願い出ている。封建時代で主従の関係が確立していた筈であるが、
紺屋は従業者に振り回されていた様子が伺える。
本願書を出してから二ケ月後、紺屋仲間が組織されており、仲間が相集い、
従業員対策を立てて文書化し、定書を作り、結束を誓っている。
紺屋八十二人で交した紺屋仲間定書は次のようである。
1、紺屋仲間は上京、中京、下京に八十二軒の多人数です。これまで召抱えている奉公人、弟子、手間取、
日雇細工人(職人) 等は勤務その他が勝手気儲な行動があり、それぞれの紺屋ではそれぞれにおいて対処していました。
この度、紺屋一同が話し合い、同意を得ましたので仲間の取締りのための役員を定め、奉公人、手間取の取締りや
商売が円滑にゆくように定を作り順番を定めて役員を勤めさせていただきたいとせんだって八十二軒の代表として
升屋九右衛門外十一名連署でお願い申し上げましたところ、ご検討の結果、役員設置の件許可いただきましたので、
紺屋仲間で合議の上、定書を次のように決定致しました。
1、紺屋仲間所属八十二軒を地域で宝組十五軒、槌組十九人、玉組二十人、船組二十八人と分け、
一組に二人宛の役員を選出します。
1、役員は全ての紺屋の中から順番に立て本年から一ヶ年ずつ回り持ちにする。
1、役員は全てまじめに勤め、会合の節は早く出席し、何事によらず正しく差配し、勝手な振る舞いをしない事。
1、年行事(役員)は順番に交替して勤めるべきであるが理由なく辞退することがあってもその理由を届出て差し支え
ないものが勤める事。
1、年行事を勤めているものがけしからん振る舞いをしたならば早速他の人に年行事を交替する。
もちろんその際はその決定に従う事。
1、何事にょらず年行事は自分勝手に行動せず、紺屋中に知らせ事業を行なう事。
以上には紺屋仲間の役員についての条項であり、役員の交替、勤め方について述べられている。
その後、九項以下においては本定書の主目的である従業員についての申し合わせ事項が列記されている。
この中を見ると当時の従業員には次のような種別が見られる。
年季奉公人
細工人
手間取(日雇、半季)
これら従業員に対し仲間ではその取り扱いについて続いて申し合わせている。
1、それぞれの工場で弟子として雇入れる長期契約の奉公人は親元や保証人をよく確かめ、
請書に印鑑艦を押させてから雇入れる事。
1、職人(細工人)に申し伝えなければならない事がある場合は関係の年行事の立ち合いで行なう事。
1、勤務している奉公人が長期契約の期間、無事勤め上げ、紺屋職に入ろうとする者にはその雇主から年行事に報告し、
商売ができるように世話する事。
1、奉公人が契約期間、勤めたも のは雇主と年行事に指導を請い、仕事を始める事。
1、年季奉公人が勝手に退職し、また契約期間中、不行跡や勤務不良の者はその件につき組し、
紺屋は申すに及ばず似た商売に携さわせない。
1、紺屋の中で奉公途中にその工場を出たものは紺屋の仲間中では雇入れない事。
1、給与を取る奉公人を雇入れる際は充分に経歴等よく聞き取る事。
1、給与取りに対しては半年季又は一年の契約とし、紺屋に入り、賃金の前借りをしながら仕事もせず、
契約途中で他の紺屋に行って仕事をすることが度々有ったが今後、
このようなことが起こらないよう に工場間でよく聞き合わせてこのような不好な者を雇入れないようにする事。
1、給与取職人の雇入れ時期は今後、二回に分け、五月の節句後、十一月一日後に定める。
1、給与取の賃金はその時の物価に準じて定める事。
1、半季の職人の前借りは銭三貫目を限度にする。しかし勤務が続かないものには相応にすべきの事。
1、日雇の者には前借りをさせない事。
1、給与取職人の雇入れ、退職の際は年行事に報告する事。
1、職人を雇入れ、賃金を定め、前借りしたものは職人より証文を取っておく事。
等、従業員対策の数々が同業者間に定められている。
この文書によるとその時代には日雇労務、給料取りと賃金のもらえる職人は二種類に
限られていたが定書を見る限り半期、一年と契約が別れていたようで仲間では紺屋の中では一応、
五月と十一月の二回に分けるとなっており、おそらく半年ごとの給料であったと思われる。
そのためその日暮しであった人々は生活のため給料の前借りをせざるを得なかったのではないかと
考えると定書に書かれた職人さんとのトラブルが発生する素地は給与体系にあったと言えよう。
次回(4月1日更新)へ続く→紺屋仲間の変遷
【参考文献】
京黒染 著者 生谷吉男 京都黒染協同組合青年部会
発行者 京都市中京区油小路通三条下ル三条油小路町一六八番地 理事長 古屋 和男
発行日 昭和六十三年三月三十一日