柊屋新七
ようこそ。おこしやす。 京都の黒染屋、柊屋新七 五代目を襲名いたしました。馬場 麻紀でございます。創業明治三年より代々受け継ぎ五代目をさせていただくことになり、責任を感じながらも周囲の方々に支えられている事に幸せを感じながら日々頑張っております。 一つのことを成し遂げる難しさと、物作りの楽しさと、出来上がった感動を直接お客様から聞ける喜びに感動をしながら、毎日励んでおります。
小さなころから父の染めている姿を見ていた私が、自分が工場に入って染めるとは思ってもいませんでした。 知らない間に体と心が良い染めをしたいと工場に入り、気がつけば、お客様の喜びが自分の喜びにかわっていました。 家を継ぎ、仕事ができる環境と設備を残してくれたご先祖様に感謝しながら日々精進しております。 少しでも皆様のお役に立てられるように頑張りたいとおもいます。
よろしゅう おたのもうします。
馬場 麻紀
名水「柳の水」
「都名所図会・柳の水」より
この地は平安時代末期に崇徳院(1119~1164)の御所があった所で、清泉があり、千利休が茶の湯に用い、そばに柳の木を植え、水に直接に日が差すのを避けたと伝えられています。
馬場染工業では、1870(明治3年)の創業時に、地下約100メートルから業務用に汲み上げ始め、以来1度も枯れずに今もなお染・飲料水として使用しています。
京都市中京区西洞院三条下ル
南北に通る西洞院通(にしのとういんどおり・旧西洞院大路)を挟む西側町。南側を六角通(ろっかくどおり・旧六角小路)が通る。平安京の条坊では、町の東側は左京四条三坊一坊一町西、西側はおよそ西洞院大路上の地。平安中期以降は、六角西洞院大路の北にたる。「拾芥抄」には、「鬼殿三条南西洞院東、有佐宅悪所。或朝成跡歟」とみえる。
「今昔物語集」巻二七には「其ノ所ニ霊有ケリ」という鬼殿(おにどの)の話を載せるが、「三条北、東洞院東」としている。当地には織田信雄(常貞)の宅地があり、その跡地は岡部内膳・加藤忠広の京邸となり、貞亨(1684-88)以後は紀州徳川氏の邸となった。
町名は、寛永14(1637)洛中絵図に「柳水町」とみえ、その後、変化はない。海苔酢の島屋嘉兵衛が居住(貞享2年刊「京羽二重」)、「京独案内手引集」(元禄7年刊)には「びろうどおり所 西洞院三条下ル丁」とみえる。
明治維新前は、下古京南艮組新シ町の宗林組に属し、四六軒役を負担。
洛中名水の一。 「山城名勝志」によれば上下二ヶ所あり、「上柳水在三条南西洞院東側北隅、下柳水在五条坊門南西洞院下柳水町東側、今絶」と位置が示される。 このうち上柳水は現在の柳水(りゅうすい)町北側と釜座(かまんざ)町西側辺りに比定される。この地は、平安時代末期には崇徳院の御所があったところで、「今鏡」に「新院(崇徳)永治元年十二月九日ぞ三条西ノ洞院へ渡らせ給う、太上天皇の尊号をたてまつらせ給」とある。
また、近世初期には、織田信長の子信雄の屋敷になっていたようで、「雍州府志」は「在西洞院三条南元内府織田信雄公之宅井也、斯水至清冷也、植柳於井上避日色、因号柳水、千利休専賞批水点茶、故茶人無人無不汲之」と記す。「京羽二重織留」も同様の趣旨を掲する。
洛中名水の一。「山城名勝志」によれば上下二ヶ所あり、「上柳水在三条南西洞院東側北隅、下柳水在五条坊門南西洞院下柳水町東側、今絶」と位置が示される。 このうち上柳水は現在の柳水(りゅうすい)町北側と釜座(かまんざ)町西側辺りに比定される。この地は、平安時代末期には崇徳院の御所があったところで、「今鏡」に「新院(崇徳)永治元年十二月九日ぞ三条西ノ洞院へ渡らせ給う、太上天皇の尊号をたてまつらせ給」とある。
また、近世初期には、織田信長の子信雄の屋敷になっていたようで、「雍州府志」は「在西洞院三条南元内府織田信雄公之宅井也、斯水至清冷也、植柳於井上避日色、因号柳水、千利休専賞批水点茶、故茶人無人無不汲之」と記す。「京羽二重織留」も同様の趣旨を掲する。
豆腐やお酒がおいしいといわれる京の水。
酒所「伏見」の地名は、桃山丘陵を水源とする地下水「伏水(フシミ)」に由来します。
京の碁盤の目の通り名にもその歴史がいきづいています。
いわれのある南北の通りに沿って
小川通り
茶道の家元、表千家と裏千家が並び、少し前まで、民家の軒を小さい川が流れていました。二筋西の醒ヶ井(さめがい)通りには、村田珠光が足利義昌に献茶するのに汲んだという名水「佐女牛井(さめがい)」がありました。
川端通りの下の宮川町
7月10日夜に四条大橋の上で行なわれる祇園祭りの神興洗には、鴨川の水を汲み上げてお祓いがなされるので、四条から五条間の鴨川を宮川といいます。
秀吉が北野の大茶会を催したときに、利休が用いたという「利休の井」というのが、上七軒にある西方寺という尼寺にあります。お干菓子の観世水は、西陣(大宮通り五辻下る)に観世水といわれた井戸の跡があって、井戸の波紋を模したもので、お能の観世流の紋様です。
東西の通り
出水通り
烏丸より西の処で泉が湧き出る地がありました。
御池通り
平安時代、神泉苑があり、苑の中央には放生地があって、昔は日照りが続くと池の水は灌漑用に農家へ開放されました。又、雨乞いの道場でもありました。
紋付の歴史と風俗
今日、女性の黒紋付は不祝儀の際の正式礼装とされています。
しかし、その歴史は意外に新しく、明治32年(1899)、永照皇太后(明治天皇御母)が亡くなられた際に、当時の宮内省(現宮内庁)が「喪服は白衿紋付」と告示したのがきっかけ。そのころは一部の上流婦人たちの風習で、一般に定着したのは昭和に入ってからと言われています。
なお、男性の正式礼装である紋付羽織袴は元来、江戸時代の武家の日常着でした。後に上層町人が式服として着用するようになり、祝儀・不祝儀両用の礼服として、現代に引き継がれています。
死者を悼み、そのけがれを忌むために喪服を着る習慣は、古くから世界各地で行われていました。
古代の日本でも、藤葛などの繊維を織った「ふじごろも」と呼ばれる粗末な服が用いられていたようです。
また、素服と書いて「あさのみそ」「いろ」などと呼んだという記録も残っています。
これが正式の喪服として定められたのが奈良時代のこと。
「養老令」によれば、天皇の着るべき喪服が、死者の身分に応じて定められており、
錫紵(しゃくじょ)と呼ばれる浅黒色の喪服も含まれていました。
しかし、一般の喪服はまだまだ、「いろ」「いろぎ」などと呼ばれる生地のままの麻服が主流。
「いろなし」の略語あるいは「白」の反語が、その語源と考えられています。
この時代の宮中では、「素服」という言葉が黒い袍(わたいれ)を意味するほどに、黒い喪服が普及します。ひとつには椽染(つるばみ)をはじめとする黒染の技術が発達したからでしょうか。
ただ、同じ黒といっても死者との縁の遠近や服喪の時期によって使い分けがあり、死者との縁が近いほど黒い服(重服)を、遠いほど鈍色(にびいろ)(薄墨)の服(軽服)を用いていました。「中将の君、鈍色の直衣、指貫うすらかに衣がへして」…妹である葵の上の法事の後、その夫である光源氏を見舞った三位中将の装いです。
京黒染めについて
京都に都が制定され約1200年が過ぎました。
永年の王宮の地は、四季折々の美しい自然の変化がありました。
周囲の山々の頂きには、春夏秋冬各々の演出が醸し出され、地から湧き出る清い水は、
南北に流れる何本もの美しい清流となり、緑多い自然環境が、色彩感覚の豊富な人々を送りだしてきました。
そして、染色に欠かすことのできない京都の水が染色に適合して伝統ある京染めを生みだしたのです。
黒紋付染は、17世紀初頭に確立されたといわれています。
江戸時代、武士の間で、びんろうじという植物染料による黒紋付が愛用されました。
染料に含まれるタンニンが刀を通さないほど絹地を強くし、護身用として使われたのです。
現代、紋付羽織袴や女性の喪服などが国民の礼服となり需要は高まりました。
京都の黒紋付染は、明治以降ヨーロッパの染色技術や化学染料の導入によって磨かれ、
藍下(あいした)、紅下(べにした)や三度黒(さんどぐろ)などの技法が確立されました。
深みのある黒色が特色です。
各種お誂え
着る方の品格を引き立てる秀明黒ブランドの京黒紋付。
京の黒染屋・馬場染工業では技術の粋を集めた京黒紋付のお誂えを承っております。
お誂えは誰でも簡単にできます。料金・家紋・サイズなどご不明な点などございましたら、
どうぞお気軽にお問合せ下さい。お誂え全国発送いたします。
男物紋付着物 八掛付(16m)襟ネーム付きオーダー染め
- 紅下黒または藍下黒
- 新潟五泉織物 羽二重
- 上絵 ネーム入り 仕立て込み
※足袋、草履は別途料金です。表示は税別価格です。
※上記価格は2008年度のものです。
詳しくはこちらからお問合せ下さい。