名水「柳の水」
「都名所図会・柳の水」より
この地は平安時代末期に崇徳院(1119~1164)の御所があった所で、清泉があり、千利休が茶の湯に用い、そばに柳の木を植え、水に直接に日が差すのを避けたと伝えられています。
馬場染工業では、1870(明治3年)の創業時に、地下約100メートルから業務用に汲み上げ始め、以来1度も枯れずに今もなお染・飲料水として使用しています。
京都市中京区西洞院三条下ル
南北に通る西洞院通(にしのとういんどおり・旧西洞院大路)を挟む西側町。南側を六角通(ろっかくどおり・旧六角小路)が通る。平安京の条坊では、町の東側は左京四条三坊一坊一町西、西側はおよそ西洞院大路上の地。平安中期以降は、六角西洞院大路の北にたる。「拾芥抄」には、「鬼殿三条南西洞院東、有佐宅悪所。或朝成跡歟」とみえる。
「今昔物語集」巻二七には「其ノ所ニ霊有ケリ」という鬼殿(おにどの)の話を載せるが、「三条北、東洞院東」としている。当地には織田信雄(常貞)の宅地があり、その跡地は岡部内膳・加藤忠広の京邸となり、貞亨(1684-88)以後は紀州徳川氏の邸となった。
町名は、寛永14(1637)洛中絵図に「柳水町」とみえ、その後、変化はない。海苔酢の島屋嘉兵衛が居住(貞享2年刊「京羽二重」)、「京独案内手引集」(元禄7年刊)には「びろうどおり所 西洞院三条下ル丁」とみえる。
明治維新前は、下古京南艮組新シ町の宗林組に属し、四六軒役を負担。
洛中名水の一。 「山城名勝志」によれば上下二ヶ所あり、「上柳水在三条南西洞院東側北隅、下柳水在五条坊門南西洞院下柳水町東側、今絶」と位置が示される。 このうち上柳水は現在の柳水(りゅうすい)町北側と釜座(かまんざ)町西側辺りに比定される。この地は、平安時代末期には崇徳院の御所があったところで、「今鏡」に「新院(崇徳)永治元年十二月九日ぞ三条西ノ洞院へ渡らせ給う、太上天皇の尊号をたてまつらせ給」とある。
また、近世初期には、織田信長の子信雄の屋敷になっていたようで、「雍州府志」は「在西洞院三条南元内府織田信雄公之宅井也、斯水至清冷也、植柳於井上避日色、因号柳水、千利休専賞批水点茶、故茶人無人無不汲之」と記す。「京羽二重織留」も同様の趣旨を掲する。
洛中名水の一。「山城名勝志」によれば上下二ヶ所あり、「上柳水在三条南西洞院東側北隅、下柳水在五条坊門南西洞院下柳水町東側、今絶」と位置が示される。 このうち上柳水は現在の柳水(りゅうすい)町北側と釜座(かまんざ)町西側辺りに比定される。この地は、平安時代末期には崇徳院の御所があったところで、「今鏡」に「新院(崇徳)永治元年十二月九日ぞ三条西ノ洞院へ渡らせ給う、太上天皇の尊号をたてまつらせ給」とある。
また、近世初期には、織田信長の子信雄の屋敷になっていたようで、「雍州府志」は「在西洞院三条南元内府織田信雄公之宅井也、斯水至清冷也、植柳於井上避日色、因号柳水、千利休専賞批水点茶、故茶人無人無不汲之」と記す。「京羽二重織留」も同様の趣旨を掲する。
豆腐やお酒がおいしいといわれる京の水。
酒所「伏見」の地名は、桃山丘陵を水源とする地下水「伏水(フシミ)」に由来します。
京の碁盤の目の通り名にもその歴史がいきづいています。
いわれのある南北の通りに沿って
小川通り
茶道の家元、表千家と裏千家が並び、少し前まで、民家の軒を小さい川が流れていました。二筋西の醒ヶ井(さめがい)通りには、村田珠光が足利義昌に献茶するのに汲んだという名水「佐女牛井(さめがい)」がありました。
川端通りの下の宮川町
7月10日夜に四条大橋の上で行なわれる祇園祭りの神興洗には、鴨川の水を汲み上げてお祓いがなされるので、四条から五条間の鴨川を宮川といいます。
秀吉が北野の大茶会を催したときに、利休が用いたという「利休の井」というのが、上七軒にある西方寺という尼寺にあります。お干菓子の観世水は、西陣(大宮通り五辻下る)に観世水といわれた井戸の跡があって、井戸の波紋を模したもので、お能の観世流の紋様です。
東西の通り
出水通り
烏丸より西の処で泉が湧き出る地がありました。
御池通り
平安時代、神泉苑があり、苑の中央には放生地があって、昔は日照りが続くと池の水は灌漑用に農家へ開放されました。又、雨乞いの道場でもありました。